ひんやりした朝を感じるとふと高野山を思い出す。
当初、お坊さんとは相談を受けたり御経を唱えたりするものだと勝手にイメージしていた。
実際与えられた仕事はだれでもできるような雑務ばかりで
「こんなことやるためにきたんじゃない」と心の中で叫びながらで雑務をこなしていた。
しかし年々時が経つにつれ分かってきたように思う。
やりたい事をしているのにはずなのにやりたくない事が付随して必ず出てくる事。
したくない事でもそれを片付けなければやりたい仕事までいきつけないという事。
だったらやりたいことを見据えて与えられた仕事を懸命に向き合っていき「精進」していく事が「行」だと気づいたときにすべての行為が意味のあると変わっていった。
知心寺住職 眞田正適
コメント