「祈っても意味がない。」「祈る事は諦めた者がする行為」だと言われたりもします。
私たちは欲を持ちながら生きております。「欲を捨てろ」と言われても生きている限り捨てる事は出来ません。お釈迦様は欲望に対して「無記」だと言い、良いとか悪いとか記すことが出来ない事だと説かれております。
こんなにも信仰しているのにどうして災難が付き纏うのか?神も仏もいないのでは?と思っていた時期もありました。「愚かな者はつとめ励むことも知らないで、ただ良い結果だけを求める。」
家族の事・友人の事・共に励んでいる仲間が足掻き苦しんでいる姿や本当は泣きたいのに耐えて笑顔で振る舞っている姿を見るとこちらも心が締め付けらる思いであります。
「宝珠のほとりには必ず悪鬼あって、囲繞し、宝蔵のかたわらには定んで盗賊あって窺ゆす。美女は招かざれども好醜の男あらそい逐い、医門は召さざれども疾病の人投帰す。」(秘蔵宝輪)
鳥が産まれる際、卵殻から出ようとする様子を見て、親鳥が外部から卵をくちばしで突つき、ヒビを入れて孵化するきっかけを作ってあげる。
「信修すれば、則ちその人なり。もし信修することあらば、男女を論ぜず皆、これその人なり」(性霊集)
「呪い」と書いて「のろい」と読みますが「まじない」とも読みます。「のろい」は憎んだりする人に、災いがあるようにとに祈り、「まじない」が表すのは神仏や神秘的な力を借りて、災いや病気を除いたりする。