「退屈」とは一般的に何もすることがなくて時間を持て余す事だとされておりますが、元々仏教用語で、「退屈」は「退いて屈する」と言う意味であり、修行の苦しさや難しさに屈して、仏道を求める心が退き、努力する心
感情が上手くコントロール出来ない人をよく乗馬に例えられます。感情が上手くコントロールできない人は暴れ馬に乗りながら落ちないように必死にしがみついている状態であるのです。
「若い時に財を得ることもなく、修行もしないのなら、魚のいない沼にたたずむ老いた白鷺のごとく痩せ衰えてしまう」(法句経)
「ビジネスに使える○○」等の歴史の本が人気作としてよく書店等で並んであります。それを見ていて逆ではないのかなと思います。否定をするつもりはありませんが、自分の価値観の幅を広げてくれるのが歴史書であった
「利益がなくても何故学ぶのか?」「見方が変わるから」「医王の目には途に触れて皆薬なり。解宝の人は鉱石を宝と見る」(般若心経秘鍵)
「古の人は学んで利を謀らずと、今の人は書を読んでただ名と財をなす。」(性霊集)訳)昔の人は道を学ぶときに損得を考えずに机に向かったが、今の人は本を読むときも地位とお金のことばかり考えている。
お釈迦様が弟子とともに一緒に歩いておられた時のことでした。お釈迦様は突然地面を指差してここはお寺を建てるにはふさわしい場所だ言われました。
「どの方向に探して求めても自分より愛しいものはどこにも見出せない。」とお釈迦様は説かれました。