仏教は、様々な例え話を用いますが、その中でも特に有名なのが「毒矢のたとえ」であります。死後どうなってしまうのか?世界はどこまで広がっているのか?世界は無くなってしまうのか?
「病人に対って方経を披き談ずとも、病を療するに由無し。」(性霊集)訳)病人に対していくら病気の詳しい説明をしても病は治らない
「文章は興に乗じて便ち作れ。興なくんば睡るに任せよ。睡れば大いに神を養う」(文鏡秘府論)訳)文章は興が乗っている時に書く。調子が悪い時は寝る事に限る。身体を休めれば良いアイデアが生まれてくる。
毎週月曜日、朝7:00~は正適住職による集中瞑想に参加させていただいています。瞑想中に「自分が達成したい目標」を毎回イメージするのですが、毎週そのイメージを思い浮かべることで、以前より自分が今すべきこ
中心がしっかりと定まって回っているコマは止まっているかのように綺麗に見える。信念はよくコマに例えられます。信念がなく、ああ言われたらこっちに行き、こう言われたら中心がしっかりと定まって回っているコマは
「未だ有らず、一味味膳なし、片音妙曲を調ぶ者は」(性霊集)どんな料理も一つの調味料だけでは美味しい料理を作る事ができず。どんな良い楽器であっても単調の音階だけでの名曲に出会った事は未だ知らない。
仏教では永遠に変わらないものはない「諸行無常」を説きます。全ては時と共に移り変わっていく。苦しみも悲しみもずっと同じかと言えばそうではなく、やがては時と共に流れていきます。
これから紅葉の観光シーズンを迎える。観光の「観」とは、心の眼で観ることを意味します。「観光」という本来の意味は、過去の先人が残した光を心の眼で観ると言うこと。