「一手拍をなさず片脚歩むこと能わず 」(高野雑筆集)私たちは 片手では拍手する事ができません。片足では歩くこともままならない。それと同じように 私たちは 人と人とが助けあって、お互いの「間」を取り持つ
高野山に、ある一人の雲水が訪ねてきました。雲水はあろうことか、お寺で大切にしている大般若経(般若心経の原本)の入っている箱の上に腰掛けて言いました。
家の中がゴタゴタしてうまくいかないと、先祖祀りをしていないからその祟りがきているだといった話をよく耳にしますが同じレール上の原因と結果なのかは疑問に思います。もし自身が先祖側であったならば祖先を祟って
お釈迦様とある者とのやり取りにこんな話があります。あるとき、異教徒の者がお釈迦様の所にこられ悪口を言った。黙って聞いておられた釈尊は、彼が悪口を言い終わると静かにたずねられた。
命と言うのは、大昔の原始生物から遺伝子を通じて縦にに繋がっています。一方で社会は横の繋がりで成り立っていて、縦の系列と横の繋がりの交わるところが「今」「ここ」に自身が生かされています。大海の水をお椀に
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」(法句経)怨みや憎しみは鎮まることがありません。怨みや憎しみを忘れてはじめて心が鎮まります。
自信を持つ事は良いですが、それが永遠の自分のものだと錯覚すれば慢心につながります。過剰な自信は自分の小さな過ちを認めたがらず、見逃してしまいますから反省がありません。反省のないところに成長はありません
他人の失敗は目につきやすいですが、自分自身の出来ない部分、見たくない部分も目をそらさずに認めていく修行が「忍辱」の意味であります。起こった事象を他者の責任にせず、自分事として考える事が問題の本質を捉え